今回ご紹介する映画は『君たちはどう生きるか』です。
スタジオジブリ最新作にて、宮﨑駿監督が『風立ちぬ』以来、10年ぶりに手掛ける長編アニメーション映画。
本記事では、ネタバレありで『君たちはどう生きるか』を観た感想・考察、あらすじを解説。
一切の宣伝をせずに公開する、妙なドキドキ感がある稀有な劇場体験でした…!
ジブリ映画『君たちはどう生きるか』の作品情報
『君たちはどう生きるか』
5段階評価 |
あらすじ
太平洋戦争中に火災で母を亡くした眞人は、父と再婚相手の夏子とともに、地方へ疎開する。そこで出会ったアオサギに導かれるようにして、別の世界での冒険が始まる。
作品情報
タイトル | 君たちはどう生きるか |
英題 | THE BOY AND THE HERON |
監督 | 宮﨑駿 |
原作・脚本 | 宮﨑駿 |
出演 | 山時聡真 菅田将暉 柴咲コウ あいみょん 木村佳乃 木村拓哉 |
製作国 | 日本 |
製作年 | 2023年 |
上映時間 | 124分 |
『君たちはどう生きるか』キャスト
キャラクター | 名前(キャスト)/役柄 |
---|---|
牧眞人(山時聡真) 主人公。母親の久子を亡くし、父と疎開する。 | |
青サギ ・ サギ男(菅田将暉) 眞人を“下の世界”へ導くアオサギ。中には中年の男がいる。 | |
キリコ(柴咲コウ) 眞人が“下の世界”で出会う若き頃のキリコ。 | |
ヒミ(あいみょん) 眞人が“下の世界”で出会う若き頃の久子。 | |
夏子(木村佳乃) 勝一の再婚相手で久子の妹。 | |
牧勝一(木村拓哉) 眞人の父親。 | |
お手伝いさん(あいこ/大竹しのぶ、いずみ/竹下景子、うたこ/風吹ジュン、えりこ/阿川佐和子) | |
インコ大王(國村隼) | |
老ペリカン(小林薫) | |
大伯父(火野正平) “下の世界”で均衡を保つ役割を担う。 |
ネタバレあり
以下では、映画の結末に関するネタバレに触れています。注意の上、お読みください。
【ネタバレ感想】82歳の宮﨑駿の新たな挑戦
(C)2023 Studio Ghibli
2013年公開の『風立ちぬ』が公開されたその年に、記者会見を開いて引退を表明した宮﨑駿監督。
引退宣言を撤回し、自身の監督作としては前作から10年ぶりとなる長編映画『君たちはどう生きるか』が公開されました。
君たちはどう生きるか
本作のタイトルは、吉野源三郎氏が1937年に発表した同名の児童向け小説のタイトルと同じであり、子どものころに宮﨑駿監督が読んで感銘を受けたことがきっかけのひとつとなっています。
タイトルは同じですが、主人公がこの小説を読むシーンが描かれる設定があるものの、小説とは全く異なるオリジナルの作品です。
スタジオジブリのみの単独出資であり、予告編を含めた宣伝もない、まさに異例づくしで公開された『君たちはどう生きるか』。
スタジオジブリのこれまでの制作の歩みと『君たちはどう生きるか』の制作背景については『スタジオジブリ物語』という書籍で詳しく書かれているので、合わせてチェックしてみてください。
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オリジナルの物語と言いましたが、上記の書籍の中で、本作が「アイルランド人が書いた児童文学」に刺激を受けて作ったことを明かしています。
その書籍とは、ジョン・コナリーが2007年に発表した『失われたものたちの本』です(公式発表はしていません)。
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購入したものの、事前に読むのをやめ、せっかくの真っサラな状態で宮﨑駿監督の新作をドキドキしながら初日初回の上映で見に行きました。
率直な感想としては、めちゃくちゃ難しかった。純粋な“面白さ”がある作品ではなかったのが正直な感想です。
エンドロールの米津玄師氏の『地球儀』の楽曲の素晴らしさ、流れるキャストたちの名前を観て「おぉ!」とはなったものの、どうにも肝心の内容がよく理解できずにいました。
冒頭で戦時下だとわかると、『風立ちぬ』的な物語かと想像すれば、『ハウルの動く城』『風立ちぬ』『崖の上のポニョ』など、これまでのジブリ作品に通じる場面が散りばめられています。
その一方で、どうもフワッとしていて掴めないのです。
映画を観た後、“本当の原作”と思われる『失われたものたちの本』を読み、ようやく自分の中で理解できる部分があったので、以下では考察という形で書いていきます。
【ネタバレ考察(1)】ほぼ原作?『失われたものたちの本』との関連性
(C)2023 Studio Ghibli
宮﨑駿監督は、『君たちはどう生きるか』の著者、吉野源三郎氏の孫である吉野太一郎氏との対談で、「ずっと自分が避けてきたこと、自分のことをやるしかない」と思いを語っています。
映画を観た後に『失われたものたちの本』を読むと、原作と言っていいほど通じる部分がありました。宮﨑駿監督は、帯の推薦文で以下のコメントを寄せています。
ぼくをしあわせにしてくれた本です。出会えてほんとうに良かったと思ってます。
なるほど、『君たちはどう生きるか』は、『失われたものたちの本』に刺激を受けた宮﨑駿監督が、“最後の長編映画”として自分の人生を描いた物語だったんだ。
まず、本作の制作のきっかけとなった『失われたものたちの本』について解説します。正直、この本を読むのと読まないのでは、映画の感じ方が違うと思いましたので。
非常に近い世界観
『失われたものたちの本』の舞台は、第二次世界大戦下のイギリス(イングランド)。12歳の主人公デイヴィッドは、病気で愛する母親を亡くし、寂しさを共有していた父親が再婚し、再婚相手との間に子どもを儲けたことで孤独感を強めていきます。
本が好きなデイヴィッドは、いつしか本から囁き声を聞くようになり、あるとき亡き母親の声を耳にして、庭の壁の割れ目を通ると、不思議な世界へとたどり着きます。
その世界では、自分が本で読んできた物語とは違う展開の物語が現実となっていて、生きているかもしれない母親を探して奇妙で残酷な冒険に出るのでした。
デイヴィッドは、カワサギの皮を被った禿げたおじさん、その名も“ねじくれ男”と出会い、母親を見つけて元の世界に戻るために、老齢の王が持つ、すべての叡智が書かれた「失われたものたちの本」を求めて冒険します。
ここまででもわかるように、『君たちはどう生きるか』の基盤となるストーリーは、ほとんど原作と言っていいほど共通しています。
冒頭で、父親と再婚した母親がキスする様子を階段から見てしまう様子においては、全く同じ場面が小説でも描かれています。
『君たちはどう生きるか』を観て、独特でダークな世界観だったと感じる方もいると思いますが、『失われたものたちの本』の世界観は、児童向けとは思えないほど映画よりも遥かにダークでグロテスクな冒険活劇でした。
『失われたものたちの本』のテーマ
『失われたものたちの本』を読んで感じたのは以下の2つのテーマです。
- 恐怖・悪意との向き合い方
- 物語が人間に及ぼす力
恐怖・悪意との向き合い方
主人公のデイヴィッドは、戦時下で母親を失った悲しみに暮れる中、父と再婚した後妻、生まれた子どもへの憎悪や嫉妬心を抱いていました。
そんな中で訪れた異世界は、恐怖心・悪意が現実世界の物語(創作物)を別の形に歪めた内容として反映された世界でした。
デイヴィッドは母親の声を耳にしたことで、「母が生きているかもしれない」可能性を感じ、それを行動原理として進みますが、残酷な旅を通して、母親が死んだことを、本当は自分が認めたくないだけであることを痛感します。
カササギの“ねじくれ男”は、人間誰もが持つ邪な感情・悪意を利用して異世界へ誘い、王にするという形で利用していたのでした。
しかし、デイヴィッドは世界を受け継ぐ取引をはねつけ、自分の世界で生きることを選択したのです。
父親も後妻も新しく生まれた弟に夢中になって、自分のことなど気にもかけていないと思っていたデイヴィッドでしたが、戻った現実世界では、意識を取り戻した彼のことを父も母親も心から心配してたことを知るのです。
冒険を通して成長したデイヴィッドは思慮深く成長し、腹違いの弟にも愛情を注ぎ、その後に辛い運命が待ち受けていても、自分の世界で正しく生きようとしました。
物語が人間に及ぼす力
デイヴィッドの亡き母親はデイヴィッドに「物語は生きている」と教えました。
本や物語は伝わることで命が吹き込まれ、それによって人の想像力に根を下ろして変化する。
本の中では、『赤ずきん』『ヘンゼルとグレーテル』『白雪姫』『眠れる森の美女』など、名作童話の数々が歪んだ形で登場します。
前半で描かれる現実世界でデイヴィッドが読んだ物語が、後半の異世界では別の形の物語として歪な形で現れていました。
愛する人の喪失と、もう一度会いたいという切望、罪悪感、そして家族への嫉妬。様々な感情が渦巻く中で旅を通して子どもから大人へと成長していく1人の少年の姿を描いていました。
次の項目では、そんなグリム童話を闇鍋で煮詰めたような原作本を、あのジブリ宮﨑駿がどうやって調理したのかを考えていきます。
【ネタバレ考察(2)】宮﨑駿のパーソナルな味付け
(C)2023 Studio Ghibli
以下では、『君たちはどう生きるか』での気になるところをポイントごとに考察していきます。
世界観
物語の始まりは、太平洋戦争中の1944年に母親を亡くすところから始まります。
これは、『失われたものたちの本』の舞台設定が第二次世界大戦下のイギリスであること、父親がエニグマ解読任務に携わっているという設定の変更以上に、宮﨑駿自身の人生に基づくものでもあります。
宮﨑駿監督の父、宮﨑勝次氏は、代々製鉄所の家系であった宮﨑家で航空機製作所を設立しました。その後、戦争中に宇都宮へ疎開し、宮﨑駿が小学3年生になるまで過ごし、東京へ戻っています。
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これはまさに本作の世界観と、父親が工場で働いているというキャラクター設定にも反映されています。
アオサギは一体なんだったのか
主人公、眞人を洋館、そして“下の世界”へ誘うアオサギ。前情報としてポスタービジュルで描かれていたアオサギですが、その正体が、アオサギの皮を被った中年おじさんであることに驚いた方も多いと思います。
先に書いたように、これは『失われたものたちの本』に登場する“ねじくれ男”としてカササギの皮を被ったおじさんとして描かれています。
しかし、決定的に違ったのはそのキャラクター性。『失われたものたちの本』における“ねじくれ男”は、ジブリ映画では決して描けないほど残忍なキャラクターで、すべての根源の悪とも言える存在でした。
一方、『君たちはどう生きるか』のアオサギは、敵でもなければ味方でもない絶妙な立ち位置です。それでも眞人は最後にアオサギを「友達」と言いました。
文春オンラインのインタビュー(現在は非公開)で、本作に「高畑勲と思しきキャラクターが登場する」と語っていた鈴木敏夫氏ですが、自身も同様に、主人公と伴走する形のアオサギのキャラクターは、鈴木敏夫氏をイメージして描かれているように感じます。
積み木のパーソナルなメタファー
“下の世界”の均衡を保つものとして13の石の積み木が描かれていました。
大伯父は、眞人に積み木を積み上げて世界のバランスを取る役割を引き継ぐように頼みますが、眞人はそれを断りました。これも大筋は『失われたものたちの本』で描かれた「失われたものたちの本」の宮﨑駿なりの味付けだと思っています。
「失われたものたちの本」は、世界を作るものではなく「老王の日記」、つまりパーソナルなアイテムであることが主人公の旅を通して明かされます。
それは『君たちはどう生きるか』における「積み木」として、宮﨑駿のこれまでの監督作13作品と重なるのです。(ジブリ公式サイトの「スタジオジブリの作品」より)
「高畑勲と思しきキャラクターが登場する」と語っていた鈴木敏夫氏の言葉を考えると、大伯父のキャラクターは高畑勲のようにも思えますが、私は宮﨑駿と高畑勲の融合したキャラクターだったと思っています。
それは前作『風立ちぬ』において、実在する人物である堀越二郎と堀辰雄を融合させて1人の主人公を創り上げていたことからも想像でき、本作では、自らの物語として描いたのだと思います。
ワラワラが生を受ける前の魂であること、13の積み木が宮﨑駿の過去作であることは、ピクサー映画の『ソウルフル・ワールド』のソウル世界と22番(ピクサー映画の数)という点でも近しい部分がありました。
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眞人の行動原理
本作で痛感したのは、宮﨑駿監督は本当に説明をしない人なんだなということ。
最初に映画を観たとき、冒頭のシーンで火災現場へ向かう眞人が、緊急の場面でも一度部屋に戻り、わざわざ行儀よく着替えてから向かう様子を描いてる理由がよくわかりませんでした。
しかし、『失われたものたちの本』を読むと、主人公が母親の死を前にして、規則や決まり事を守ることで自分の手の中から母親の運命を何とかして繋ぎ止めようとしていたことがわかります。
結果的に母親は死んでしまい、主人公は「もっとあれをしていれば」と自責の念を感じて苦しんでいくのです。正直、映画の描写では全くわからない上に、“下の世界”へ行くまでをたっぷり描いている割に、眞人の内面がそれほどわからない点も、もったいないところでした。
対照的に『失われたものたちの本』では、その動機づけとなる部分がしっかりしている分、心を動かされたのです。
眞人が自分の頭を石で殴って傷つけたのも、それによって自分を被害者に仕立て上げる「悪意の現れ」であり、同時に、生まれてくる弟よりも「自分に関心を向けてほしい気持ちの現われ」だったように思います。
しかし、悪意の描き方も「悪意のない石を積み上げる役目」という謎の展開となり、モヤモヤが残ります。
『失われたものたちの本』では、黒幕である“ねじくれ男”(本作でいうアオサギ)と終盤で言い争う場面があり、そこで“ねじくれ男”は、戦争が人間の悪意を正当化するものであり、それによって母親が犠牲になったことを伝える辛辣なシーンがあります。
しかし、それでも主人公は、“ねじくれ男”の提案を断り、元の世界へ戻る選択をしたのです。
ペリカンやインコの意味は…
同様に、ペリカンやインコたちの描き方も、原作に比べると薄くなっていたように感じます。
ペリカンやインコは、『失われたものたちの本』における、人間と狼から生まれた人狼であるループという種族を変更して描いていることが想像できます。
ループは、『赤ずきん』の童話で、狼と赤ずきんが結ばれて誕生した設定で、現実世界から異世界に人間がやってくることで生じる「歪み」として表現されていました。
結果的にその歪みが時間の経過とともに肥大化し、異世界を脅かす脅威になっていくという見事な設定で、それらが人間の創造の産物であること、主人公が異世界脱出における鍵になることにも絡む物語が素晴らしいものでした。
一方で、映画ではペリカンやインコたちの立ち位置が非常に曖昧で、本作が監督のパーソナルな物語だからといってジブリを取り巻く「〇〇のメタファーだ!」とあれこれ理由付けることができても、それが物語として効果的に機能しているとは思えませんでした。
眞人が傷ついたペリカンを黙々と埋葬するシーンのように、命を大切にしていること(母の死も含めて)が想像できるシーン、メタファーと言っても、多くの人が想像できる表現が見たかったのです。しかし、宮﨑駿という人間はまったく媚びないのです。まさに“最後の作品”への情熱ともいえる徹底ぶりです。
宮﨑駿と母性
宮﨑作品には、これまで繰り返し母親の不在が描かれてきました。
アメリカで日本文学を研究するスーザン・J・ネイピア氏は『ミヤザキワールド ─宮崎駿の闇と光─』で、宮﨑駿監督の母が結核を患い、母との時間を満足に持てなかった経験から来ているのではと考察しています。
ミヤザキワールド ─宮崎駿の闇と光─ Amazonでみてみる |
スーザン・ネイピアさん「ミヤザキワールド 宮崎駿の闇と光」インタビュー 巨匠の世界観の深淵に米研究者が迫る|好書好日
それを裏付けるように、『風立ちぬ』のヒロイン、菜穂子はまさに結核を患い、『となりのトトロ』でサツキとメイの母親は入院しています。
また、『風の谷のナウシカ』の原作漫画では、母親が「わたしを愛さなかった」という記述があり、ナウシカの世界が母親の不在に苦しみ、それを埋めるためにナウシカが母親としての役割を受け継いでいくようだとネイピア氏は表現しています。
本作『君たちはどう生きるか』では、実母である久子を失いながらも、若き日の母=ヒミと冒険したり、後妻である夏子を「夏子母さん」と呼ぶ変化が見られたり、夏子の産屋に立ち入る“禁忌”を描いたり、通る道が産道のようであったり。
まさに『君たちはどう生きるか』では、宮﨑駿と母性をこれまで以上に明確に描いた作品となっているのでした。
物語が及ぼす力
先に紹介した『失われたものたちの本』のテーマのひとつ、「物語が及ぼす力」ですが、宮﨑駿監督の味付けとしては、これが最も効果的に働いていたように感じます。
『スタジオジブリ物語』で記された鈴木敏夫氏と宮﨑駿監督のやり取りで、2人は「原作のままでは映画にならない」「ジブリは映画を作るべきだ」と話しています。
『失われたものたちの本』は、異世界で「童話の世界を人間の想像力によって歪めた形」を表現しました。一方、『君たちはどう生きるか』では、それを過去のジブリ作品を用いて行っているのです。
多くの人が過去作のエッセンスを至るところに感じたと思います。その上で、全く新しい物語を創り上げているのです。
宮﨑駿監督がすごいのは、繰り返し紹介した『失われたものたちの本』が原作と言えるほど近しい部分がある一方で、まったく違うとも思えること。それくらい不思議な映画です。
結果的に宣伝なくして公開された本作でしたが、宮﨑駿監督のパーソナルな物語だったからこそ、ターゲットは観客の誰でもなく、宮﨑駿自身だったのです。
その意味では、宣伝のしようがないというか、あの形での公開は、なるべくしてなったようにも感じます。
まとめ:前しか向かない男の挑戦
真っ白な状態での稀有な劇場体験の一方で、フワっとしていた印象の本作ですが、原作とされる『失われたものたちの本』を読むことで輪郭が見え、なんとか自分なりの落としどころをつけることができました。
しかし、はっきり言って、ひとつの映画としての面白さは感じなかったのも事実です。ストーリーは冗長に感じ、これまでのジブリ作品のような魅力的なキャラクターもおらず、抽象的で観念的な世界観は、子どもが見て楽しめるものではないと思います。
一方で、映画鑑賞後に読んだ『失われたものたちの本』は、すごく面白かった。人間の深層心理を反映させた童話の解釈を歪める構造は見事で、冒険活劇としてもRPGのような面白さもありました。
さらに、主人公の良き友となるローランドという騎士がクィアとして描かれていたり、それに対して率直な主人公の内面が浮き彫りになる展開も唸ります。児童向け文学と言えど、成長期の子どもが持つ不安・怒り・嫉妬・性的衝動に至るまでをあぶり出し、成長譚として描いたのです。
そんな原作と言っても過言ではない内容に、宮﨑駿監督は、“最後の作品”として、ジブリ映画として、自分の人生を投影しました。
正直に言えば、『失われたものたちの本』の方が断然面白いですし、共感できる普遍性もあります。しかし、それを排してまでパーソナルな物語にした覚悟はすごいとしか言えません。なにせ引退宣言まで撤回して描いた作品なのですから。
『失われたものたちの本』では、主人公が現実世界に帰ってきてからの場面もしっかりと描かれていましたが、本作はとてもアッサリした幕引きになっていました。
私としては、せめて『君たちはどう生きるか』のタイトルの通り、冒険を経て眞人がどう選択したのかを示す家族との会話が一言でもあってよかったと思ってしまいます。
しかし、それすら描かないのは、この映画が誰かのためではなく、宮﨑駿自身を描いた作品を表すことの現れのようにも思います。
眞人が“下の世界”ではなく、糞尿にまみれた現実世界を選んだように、「私はこう生きた」という証明なんだと。それは「我ヲ學ブ者ハ死ス」という文字が示すように、次世代のクリエイターへのエールなのかもしれません。だからこそタイトルは『君たちはどう生きるか』だったのか…。
ジブリの歴史について詳しく知りたい方は、先に紹介した『スタジオジブリ物語』をぜひ読んでほしいのですが、その中でも最も印象的だったのが、あとがきで鈴木敏夫氏が宮﨑駿監督のことを語るところです。
「今=ここ」で生きる。それが宮さんの生き方だ。(中略)話題はいつも、今とほんの少し先の話だけ。ぼくと宮さんは、過去はすべて水に流して来たし、明日は明日の風が吹いた。
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決して過去を振り返らない宮﨑駿が、自分の過去と向き合って描き出したのです。鈴木敏夫氏という盟友(アオサギ)と一緒になり、異例づくしの宣伝なしという新しい形で世に打ち出した『君たちはどう生きるか』。
自らが創り上げてきた物語を通して新しい物語を創り上げる。それは面白いとは言い難い、極私的な物語でしたが、物語が持つ力、そしてそれが人間に及ぼす力、ひいてはアニメーションの力をありありと感じさせるパワーがありました。
そんなアニメーション界の“老王”宮﨑駿を、そうそうたるクリエイターたちが集結し、支えていることが明らかになるエンドロールは、物語性など抜きにした力技とも言える宮﨑駿の人生のエンドロールのようで、ずるいとすら思えました。
82歳の前しか向かない男の挑戦を目の当たりする、稀有な劇場体験でした。ぜひ映画館で!