2023年7月21日、クリストファー・ノーラン監督の映画『オッペンハイマー』がアメリカで公開。(日本での公開日は2024年3月29日)。
これまで『ダークナイト』『インターステラー』『テネット』など、数々のヒット作を打ち出してきたノーラン監督。次に描くのは、“原爆の父”ロバート・オッペンハイマーです。
第二次世界大戦における、原子爆弾の開発を主導した男で、日本にとっても非常に関係の深い人物。
本記事では、ノーラン監督が映画の原作として明かしているピューリッツァー賞受賞の書籍『アメリカン・プロメテウス』をもとに、ロバート・オッペンハイマーの人生について解説していきます。
オッペンハイマーの人生年表
1904年:オッペンハイマー生誕
KITTY OPPENHEIMER AND THE J. ROBERT OPPENHEIMER MEMORIAL COMMITTEE
オッペンハイマーは、1904年4月22日、アメリカ・ニューヨークで生誕。ドイツのユダヤ系移民である父・ジュリアスと、容姿端麗で才能豊かな画家の母・エラのもと、裕福な家庭環境に育つ。1912年には弟のフランクが誕生。
1911年〜1921年:幼少期から高校卒業まで
両親の意向もあり、1911年、私立学校「倫理文化学園」へ入学。勉強熱心で読書を好む一方で、人付き合いは苦手だった。運動は得意ではないが、ハイキング、鉱石採取、セーリングを好む。
1922年:ハーバード大学入学
ハーバード大学に入学し、化学を専攻。内向的な性格は変わらず、チェーホフやマンスフィールドなど、暗い傾向の作家の作品を好んで読んでいた。1925年、首席の成績で3年で卒業する。当時教授だったパーシー・ブリッジマン、物理学者のニールス・ボーアとの出会いで物理学に没頭する。
1925年:ケンブリッジ大学へ留学
物理学に興味を持ち、イギリスのケンブリッジ大学へ留学。当時の物理学の中心地だったキャベンディッシュ研究所に席を置く。一時期は精神的に病んでしまい、後に統合失調症となる病名を診断される。休暇を取った後、実験物理学から理論物理学へ転向する。
1927年:ゲッティンゲン大学へ移籍
理論物理学の中心だったドイツのゲッティンゲン大学へ移籍。量子力学の第一人者である、マックス・ボルンの元で深く学ぶ。数々の論文を発表し、優秀な成績で博士号を取得。
1929年:カリフォルニア大学へ
カリフォルニア大学バークレー校、カリフォルニア工科大学で助教授となる。
1931年:母の死
母のエラが白血病で死去。
1936年:ジーン・タトロックとの出会い
当時22歳だった、スタンフォード大学の医学部生で共産党員のジーン・タトロックと出会い、交際する。カリフォルニア大学、カリフォルニア工科大学で助教授から教授へ昇進。大学では“オッピー”の愛称でカリスマ的人気となった。
1937年:父の死
父のジュリアスが心臓発作で死去。
1938年〜1939年:宇宙物理学研究
宇宙物理学研究に取り組み、後にブラックホールとなる中性子星に関する論文を発表。
1939年:キティとの出会い
ジーン・タトロックと2度の婚約と婚約破棄の後、破局。その後、園遊会で当時既婚者だったキティ・ハリソンと恋に落ちる。その後、キティは夫と離婚してオッペンハイマーと再婚。1939年9月、ヒトラーがポーランド侵攻を始め、第二次世界大戦が始まる。
1942年〜:マンハッタン計画
ルーズベルト大統領は原爆開発の極秘プロジェクト「マンハッタン計画」を開始。オッペンハイマーはロスアラモスでの科学部門のリーダーに指名される。
1945年:トリニティ実験
人類初の核実験「トリニティ」が行われる。その後、原子爆弾は広島・長崎へ投下され、数十万人の犠牲者を出す。
1947年:プリンストン高等研究所
終戦後、1947年にアインシュタインらを擁するプリンストン高等研究所の所長に任命。若い物理学者たちの指導や研究環境の改善に尽力する。原子力委員会の諮問機関の委員長に任命されると、核開発に強く反対する主張を訴える。
1949年〜1954年:冷戦、核開発、赤狩り
終戦後、アメリカとソ連による冷戦が始まる。ソ連は1949年に原爆実験、1953年に水爆実験を行い、1954年にはアメリカも水爆実験を行う。共和党の上院議員マッカーシーによる「赤狩り(マッカーシズム)」が始まる。
1954年:公職からの追放
水爆開発を推し進めるエドワード・テラーとの対立、原子力委員会の委員長ルイス・ストローズとの個人的対立により、ソ連のスパイとされ、オッペンハイマーは公職を追放される。FBIによる徹底した監視下におかれ、抑圧した生活を送る。
1963年:エンリコ・フェルミ賞
ケネディ政権によってオッペンハイマーにエンリコ・フェルミ賞を送ることを発表。その後、ケネディ大統領が暗殺され、後任となったジョンソン大統領から賞を授与される。
1965年〜1967年:ガンと死去
1965年、咽頭がんが発覚し、2年後の1967年、62歳で死去。
マンハッタン計画
マンハッタン計画は、第二次世界大戦時における原子爆弾開発・製造の極秘プロジェクト。
1938年、オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンらにより、核分裂反応の研究が発表されました。
核分裂とは、原子核が同等の大きさの2つに分裂する現象。この時、膨大なエネルギーが放出される。
物理学者のレオ・シラードは、ナチス・ドイツがこの力を利用して、兵器利用することを恐れ、アインシュタインに連絡を取り、ルーズベルト大統領へ核開発を進言する手紙を送ります。
1942年10月、ルーズベルト大統領は核兵器開発プロジェクト「マンハッタン計画」を開始。責任者にレズリー・グローヴスを任命する。科学部門のリーダーに選ばれたのが、オッペンハイマーでした。
研究所はニューメキシコ州サンタエフェの北西部のロスアラモスに置き、世界中から著名な科学者たちが集められました。
計画に参加した著名な科学者たち
- ニールス・ボーア
- エンリコ・フェルミ
- ジョン・フォン・ノイマン
- エドワード・テラー
- オットー・フリッシュ
- エミリオ・セグレ
- リチャード・ファインマン など
当初は中性子の実験のために6000ドルの予算が当てられたが、最終的に20億ドルまでに膨れ上がりました。
トリニティ実験
1945年7月16日午前5時30分、ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠ホワイトサンズにて、人類初の核実験「トリニティ」が行われました。
「ガジェット」と名付けられた爆弾を、鉄塔に備え付けた状態で爆発させ、深さ3m、直径330mのクレーターが残され、爆発時に発生したキノコ雲は高度12kmに達しました。鉄塔は溶けて消失し、砂漠の砂は高温で溶け、ガラス質の石(トリニタイト)が生成されました。
「トリニティ」という名前は、オッペンハイマーが交際していたジーン・タトロックを通して知った、ジョン・ダンの詞から引用しました。
トリニティ実験の爆発とキノコ雲を目撃したオッペンハイマーは、後にその時の感情を、ヒンドゥー教の詩篇『バガヴァッド・ギーター』の一節を思い出したと語っています。
我は死なり、世界の破壊者なり
オッペンハイマーの弟フランクによると、科学者たちは「やった(It worked.)」と言って成功を噛み締め、トリニティ実験の責任者だったケネス・ベインブリッジはオッペンハイマーに「これでみんなクソ野郎ですね」と言ったそう。
そして実験の翌月、8月6日に広島へ(リトルボーイ)、3日後の8月9日に長崎へ(ファットマン)、原子爆弾が投下されました。
冷戦と赤狩り、保安公聴会
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終戦後、オッペンハイマーは戦争終結の立役者として、新聞の一面や雑誌の表紙を飾り、有名人となりました。
1946年、アメリカ原子力委員会(AEC)が設立。科学者の多くは、核を国際的な管理下に置くことが賢明な判断だと感じていました。オッペンハイマーは、原爆の脅威を目の当たりにして、核開発に反対する主張を訴えるようになります。
原子力委員会の諮問機関(アドバイザー)の委員長を務めていたオッペンハイマーは、トルーマン大統領に呼ばれ、原子力の管理権を永久に軍に委ねる法案に賛同するように持ちかけられます。
オッペンハイマーはトルーマン大統領に「わたしは手が血で汚れているように感じます」と言ったことに対し、一節によるとトルーマンは「洗えば落ちる」や、ハンカチを渡して「これで拭けばいい」と伝え、後に“泣き虫科学者”とまで表現しています。
戦後の核開発競争
1949年8月29日 | ソ連が初の原爆実験を実施 |
1952年10月3日 | イギリスが初の原爆実験を実施 |
1952年11月1日 | アメリカが人類初の水爆実験を実施 |
1953年8月12日 | ソ連が初の水爆実験を実施 |
1954年3月1日 | アメリカがビキニ環礁で水爆実験を実施。第五福竜丸が被爆する。 |
1957年11月8日 | イギリスが初の水爆実験を実施 |
1960年2月13日 | フランスが初の原爆実験を実施 |
1953年、アメリカのアイゼンハワー大統領は、国連総会の演説で「平和のための核」を提唱しました。冷戦による核開発競争が急速に進むことで、核戦争が現実化することを危惧して訴えました。その一方で、アメリカは水爆開発を推し進めていました。
1954年のアメリカの水爆実験が明らかになると、国際的な反核運動が高まっていきます。
1957年には、原子力の平和的利用の促進、原子力の軍事利用の防止を目的とし、国際原子力委員会(IAEA)が設立されました。
オッペンハイマーの保安公聴会
出典:atomicarchive.com
1954年、原子力委員会は、オッペンハイマーの行動や背景を調査するために公聴会を実施。オッペンハイマーは、妻のキティや弟のフランク、元恋人のジーン・タトロックや同僚など、関係のある人物の多くが共産党員でした。
その影響もあり、マンハッタン計画に参加する前から、FBIによる監視下に置かれていました。マンハッタン計画の科学者リーダーとして核実験を成功、戦争終結後、1947年、Qクリアランス(核兵器など最高機密情報にアクセスすることが認められるライセンス)を認められます。
オッペンハイマーは水爆の開発が、核兵器の競争を加速させ、核戦争のリスクを高めることに繋がると主張し、水爆開発に反対しました。
一方で、エドワード・テラーは、アメリカが水爆を開発しなければ他の国が先んじて開発する可能性があると主張し、国家の安全保障上の必要性を強調しました。テラーはマンハッタン計画にも参加していましたが、「科学者は発見することが仕事」と、原爆以上に膨大なエネルギーを得られる水爆研究を推し進めました。
また、原子力委員会の委員長となったルイス・ストローズは、水爆開発に反対するオッペンハイマーと対立し、1949年に開かれた原子力委員会の合同委員会の公開セッションにおけるオッペンハイマーの証言により、個人的な怒りを持ち始めます。
研究目的で放射性同位元素を外国の研究所に輸出することの可否を問う議題。結果的に可決されるものの、原子力委員会メンバーの中で唯一反対していたストローズに対し、オッペンハイマーは皮肉を交えて答えます。
シャベルだって、ビール瓶だって原子力のために使えます。放射性同位元素は重要ですよ、ビタミンに比べれば。
この返答で場は笑いが起きるものの、ストローズは怒りを滲ませ、オッペンハイマーとの個人的な対立を深めていきます。
テラーとの対立、ストローズとの対立もあり、オッペンハイマーはQクリアランスを取り消され、結果的に公職から追放されるのでした。
エンリコ・フェルミ賞と晩年
出典:atomicarchive.com
オッペンハイマーは、1963年、理論物理学への貢献、特にマンハッタン計画における原子爆弾開発の指導力が認められ、1963年にエンリコ・フェルミ賞を受賞しました。
オッペンハイマーはノーベル賞を受賞していませんが、戦後に候補に名前が挙がっていました。しかし、ノーベル委員会は広島と長崎へ密接に関係する彼に贈ることに明白に躊躇いました。
ケネディ政権は名誉回復の意味を込めてオッペンハイマーにエンリコ・フェルミ賞を贈ります。その後、ケネディ大統領は暗殺されてしまい、後任となったジョンソン大統領によって、賞を授与されました。
このとき、オッペンハイマーは対立したエドワード・テラーとも笑顔で握手を交わしており、周りは固唾をのんで見守ったと記されています。
エンリコ・フェルミ賞受賞から4年後の1967年、咽頭がんによって62歳で息を引き取りました。
まとめ:オッペンハイマーというアンビバレントな人物
今回はクリストファー・ノーラン監督の新作『オッペンハイマー』の原作本をもとに、オッペンハイマーの生涯を解説をしました。
原作本のタイトルは「アメリカン・プロメテウス」。これは第二次世界大戦後のアメリカで彼に対して使われた言葉です。原子力をもたらしたオッペンハイマーを、ギリシャ神話でゼウスから火を盗み、人類に与えたプロメテウスに重ねて表現しています。
しかし、彼がもたらした原爆により、多くの人々が犠牲になったことは紛れもない事実です。
「核」の問題は今なお続いています。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が続く中、2023年5月中旬、広島でG7サミットが開催されました。各国の首脳たちは原爆資料館や被爆者たちと面会し、「核兵器のない世界」の実現に向けて意見を一致させる一方で、日米は「核の抑止力」が安全保障に必要不可欠と確認していました。
現時点では、世界で9カ国が核を保有しています。加えてイランも開発を進めている現状。単純ではない国際秩序をどう守っていくか、課題が問われています。
ノーラン監督は、オッペンハイマーについて「良くも悪くも、人類史上最も重要な人物」と語っています。迫力ある映像を撮ることでも知られる監督ですが、トリニティ実験については「CGを使わずに再現した」と話しています。
しかしながら、新作で描かれるテーマは非常に複雑です。オッペンハイマーというアンビバレントな人物をどのように描くのか。
北米公開は7月21日ですが、日本公開日は未定です。時期的には原爆の日も近いので、どうなるのかが気になるところです。